私は無力である

今年に入ってからというもの、私を悩ませていたのは高校生の娘が修学旅行のためにワクチン接種が必要だということ。本当にいろいろ調べたし、学校とも何度も話し合ったが、結果的に2回接種を終えた。これで無事、修学旅行には行けることになり、当初3回必要だというところ、2回でも良くなったのがせめてもの救いだったと思う。しかし、私は当然、釈然としていない。
ワクチン自体を否定する気はないし、ここで議論するのも避けたい。ただ私は、娘にこのワクチンは不要だと判断したので、打たせたくなかった。だが、娘は接種を選択。当然だろう、修学旅行に友達と一緒に行くということが、何よりも大事な年齢だし、それはよくわかる。が、私は薬学を学び、その道を進んできた職業人として、これまでの知識や経験は、一番役立てたいときに何の役にも立たないんだなと虚しさを感じた。
そこで強く感じたのは、「親と子は別々の存在」だということ。子どもの説得すらできない私、自分の判断が絶対に正しいと言い切れない私、つくづく私は無力な存在だと思いました。私にとって、娘は本当に特別な存在で、「戦友」とも言える存在。妊娠中に私は離婚を経験していますが、私が一番つらい時期にともに生きてきた存在なので、そんなふうに感じています。でも、そろそろ、いい意味での「母子分離」が必要なのだろうなと思っていて、今回の騒動は母子分離することのいいきっかけになったとも感じました。
娘は接種すると決めました。私にはいろいろな葛藤はありましたが、結局、彼女の選択を尊重しようと、接種予約をしたのも私、病院に連れて行ったのも私です。本当に打たせたくないなら、断固打たせないと言い続けることもできたし、接種券を捨てることだってできたし、私はそれをしませんでした。たとえ嫌われても、打たせたくないとまで思っていたのに。「娘の選択を尊重したかった」といえば聞こえはいいが、結局娘に嫌われたくないという、なんとも情けない理由もあったし、やはり高校時代の思い出として、友達との経験をしてきてほしかったのです。
幸い、2回目の副反応からも回復し、短期的に見れば私の中の「ワクチン大戦争」はこれで一区切りしました。でも、未だにもやもやとした感情が残っています。そんなとき、縁あって、メンタルモデルのセッションを受ける機会に恵まれました。セッションでわかったのは、私には「自分が無力である」というメンタルモデルを有しており、その証拠探しをしているということ。ほらね、やっぱり私には力がないんだよね、と。
「もし本当に私が力を発揮してしまったら、崩壊させてしまうものね、だって私はわがままだから」という心の声までも潜んでいた。
そういえば、私には力がない証拠になる出来事はほかにもいくつかありました。
もうしょうがない、自分自身は完璧でもなんでもなく、歪みを有している存在で、そのままでこれからも生きていくしかないのだと。ただ、自分は無力であっても、人とつながり、愛し愛されることができるのだと。人は自分の無力さに向き合うのに勇気がいるということも初めて知った気がします。