夫を支えるってなんだろう

ノンアルなコロナ禍誕生日

先日、誕生日だった。私の昼間の勤め先では「誕生月休暇」があるので、心置きなく誕生日はお休みにした。夜のコーチングの仕事があったので、この日はノンアル決定。まじめな夫は、有給休暇をまだたくさん持っていて、その日は休暇を取ってくれた。レストランのランチを予約して、久しぶりに2人で出かけた。ここでももちろんノンアル。夫も私も、飲める体質だが、私は平日夜はほぼコーチングの仕事をしているので、お酒を飲むのは、週末、夜にコーチングの予定がないときだけ。といっても、飲むのは近所のスーパーの1000円前後のワインや、缶ビール。たまに贅沢したい気分のときは、私の好きなギネスやヱビス、プレミアムモルツなど。レストランでは、ノンアルコールワインがあったのでそれを頂いたが、ワインでもなくジュースでもなく、それはまさに第3の飲み物だった。

支えている自覚なし

夫と娘からメッセージカードをもらった。夫のメッセージには「支えてくれて」という言葉があった。実は、私は夫を支えている実感がほとんどない。むしろ多大なサポートを受けているのは私のほうだ。夜のコーチングセッション時間が迫っているのに、夕食の片付けが中途半端なまま、洗っていないフライパンが放置のままセッション、なんてざらにある。気持ちの切り替えは自分でも早いほうだと思っていて、ヘッドセットをつけた瞬間、私はモードが切り替わる。セッションを終えて部屋を出ると、帰宅した夫が続きをやっている。さすがに呆れているだろうか、うんざりしているだろうか、不安がよぎる。恐る恐る、この状況イヤじゃないの?と聞いてみたことがあるが、「いや、大丈夫」とのことだった。こんな自分が夫を支えているとしたら何だろうか。

地味な日常を共にした事実

支えているつもりはないのに、私が「支えている」としたら、それは何だろう。もしそれが、私の存在そのもの、なのであれば嬉しいが、それはわからない。そして、今回、かなり奮発したという、イタリアンレストランに行って、フルコースを楽しんだ。それは確かにおいしくて、見た目も美しくて、サービスもすばらしく、本当にすてきな時間だった。しかし一方で、この夫とは、ごくごくふつうの地味な食事を共にしてきたというこれまでの日々。ときには私が焦がしたりして大失敗したおかずも、賞味期限切れのものも、ともに食べてきたし(食べさせた?)、だからこそ、夫婦として今も成り立っているんだろうな、とも思った。実際私は夫を支えている実感はないが、夫を支えられているとするならば、そうした地味な日常生活を共に送ってきたという事実が、そう思わせるなのだろう。結局のところ、パートナーシップとは、高級フルコースなのではなく、ごはんと味噌汁、なのかもしれない。もちろん、たまにはフルコースもいいね、とは思うけどね。