音楽とコーチング 音は消えても、波が存在している

2022年8月 北海道 青い池

ピアノを再開してから1年。もうすぐ発表会。今日はレッスン日で、暗譜の状況は6~7割くらい・・・
楽譜さえあればちゃんと弾けるのに、楽譜がないとやっぱり弾けなくなってしまう箇所が多々。
いかに楽譜に、指の記憶に頼っているか。そしてやっぱり練習量が足りないな、とも感じます。

弾くのはベートーヴェン悲愴、第1楽章と第2楽章。
持ち時間の都合と私の進み具合が悪く、第3楽章は弾かないことになりました。
今日先生に言われたのは、第1楽章が終わって、その波が確実に消えてから第2楽章を弾き始めること。
音を弾かない、合間の時間のことを言われるのは初めて。

第1楽章最後の音、鍵盤から手を離して、確実に空白の時間はあったはずなのだけれど・・・・
5秒くらいか?確かに、その時私は、5秒くらい空ければいっか、と思っており、
音の余韻が波のようにまだ空気上で振動していたことなんて、意識が向いていなかった。
となると、音楽って音だけでなく、音がない時点も音楽なのか。
これって、私の仕事「コーチング」になんだか似ている。

これは実は前から感じていたことで、コーチングには音楽的要素があるなとは思っていた。
「セッション」という言葉からもそれは想像がつくのだが、
自分の中で、コーチングと音楽の共通要素が何なのかは言語化できずにいた。

この1年、細々とピアノを弾いてきて、ようやく少しずつ見えてきた。
クライアントが沈黙する時間。それは決して何もないのではなく、声なき声が存在している。
鍵盤から手を離した瞬間、音という波がその瞬間すべて消えるわけではないように。

プロの演奏と、一般人の演奏、コンピュータの音楽。
いったい何が違うのだろうかとずっと考えていた。
ドレミファソラシドの音の周波数はもう決まっているのだから、
それこそコンピュータを使えば、ミスが全くなく、テンポの揺らぎが全くない演奏を作り出すことは可能だ。
では、人の心を打つ演奏は、それと何が違うのだろうか。
それは弾く人の想いの周波数が、ピアノの音の周波数と共鳴しているかどうか、なのかもしれない。

コーチングセッションも同じ。
コーチとクライアントの周波数がどんなふうに共鳴するのか。
共鳴させるには、クライアントの使う言葉の意味を確認することの必要性も、
クライアントの背景を見ることも、
未来もっと大きく成長したクライアントの姿を見ることの大切さも
ごく自然のことのように感じる、

音は波であり、当然ピアノの音が作り出す音楽は、複数の波の重ね合わせが起きている。
そして、「悲愴」であれば、音になる背景として、若き作曲家が難聴を患う深い悲しみ。いら立ち、そして怒りもあるだろう。
それを弾く私は、どれだけさらに自分の周波数を共鳴させられるか。

自分の人生において過去最も苦しく悲しかった時代のことを重ね合わせる。
そして、そこからかすかな希望を見出し、立ち上がるときのこと。
さらに、苦しむ誰かが、立ち上がれるように祈ること。

それがもしできたならば、きっといい演奏ができるだろう。

が、それ以前にちゃんと基礎的なことはもっと練習しないといけないです。
本番までに間に合うかな・・・・。