やさしさとは相手の力を信頼すること
「強くてやさしい」人になりたいと思っている。物心ついたことから、どちらかと言えば「やさしい子」「やさしい人」と言われることは多かった。子どもの頃はいじめるほうではなく、いじめられるほうのタイプだった。でも私自身は「人にやさしく」と意識して行動しているつもりはなかった。でも、そんな私は知らず知らずのうちに、「やさしさ」をもらうことも欲していたのだと思う。
29歳でシングルマザーになり、それからしばらくは父の日は辛い日だった。スーパーに貼られる小さな子どもが書いた「お父さんの顔」なんて、視界にに入らないようにして、スーパーまで私にこんなに辛い思いをさせるのかと毒づいていた。保育園の個人面談で私が確認したのは、父の日には、お父さんの絵を描かせたりするのか、ということだった。娘にはお父さんがいないんです。どうしたらいいですか、と。お父さんがいない子は、おじいちゃんを描いたり、お兄ちゃんを描いたり、叔父さんを描いたり、いろいろです。お母さんが思っているほど、たいした問題ではないですよ。お母さん自身になにか引け目があったりするのではないですか?と言われ、私はくやしくて涙をこらえたことを思い出す。こっちは、父親がいない娘がどんな思いをするのか気にしているのに、そういう言い方はないだろう、と少し感じていた。”なんで、やさしくしてくれないの?”
今ではわかる。この園長先生がとてもやさしかったということが。母子家庭の子がいるから、父の日にお父さんの絵は描かせません、運動会で父子の競技はやりません、・・・というのを、やさしさだと勘違いしていた。他にも当時はチクチク、ヒリヒリするようなできごとは山のようにあった。でも、園長先生は、あなたなら大丈夫だよと私を信頼していてくれたのかもしれない。
あれから10年以上が経ち、再婚した今も、そのときの痛みは生々しいほど実感を持ってよみがえってくる。SNSにカーネーションの写真をアップすることで、誰かの心が痛まないだろうかという心配をする。来月の父の日に、お父さん役もしながらがんばっている友人に何か贈りたいと思うが、それは本当にやさしさなのか?と悩む。
あなたの気持ちはわかるよ、と共感することだけがやさしさではない。少しでも痛そうなものは排除するのがやさしさではない。やさしさとは、痛いだろうけれど、あなたなら大丈夫だよと信じること。あなたなら痛みを乗り越えていけると信じること。私と同じく、離婚という選択をした友人、知人、クライアントに、私はやさしくありたいと思う。やさしさとは、相手の力を心から信頼したうえでの行動なのかもしれない。