「自己責任」で引き受けられるほど強くないけれど

今日は病院に行く日。朝、洗面台に映った自分の顔を見ながら、ああ、面倒だ、嫌だなぁと思った。病院までは電車で1時間はかかる。これって不要不急か?電話して他の日に変えてもらおうか…。卵巣嚢腫については、私が決めさえすればすぐに開始できる薬物治療も摘出手術も選ばずに、その代わりに3ヶ月に1回の婦人科定期検診を必ずする、ということにしたのは私じゃないか。やはり行くかと気を取り直して、娘のお弁当はどうしよう。時間がない、急げ。今日もちくわの磯辺揚げだ。ちくわの穴にはさけるチーズを入れてあげよう。特別バージョンだ。ここまでの思考はわずか数秒。

今日はいつもと違う先生だった。女の先生。私より少し若いくらいか。やさしい。「挙児希望がないのなら、右のほうは摘出しちゃいましょ、癌化したり、卵巣破裂が怖いので」「いや、でも・・・」「手術はイヤなんでしたっけ?」「はい、すぐにはイヤです」「じゃあかならず3か月おきにちゃんと検査しに来てくださいね」で診察終了。最近は医者のほうも無理強いをしない。これって、最近流行りの「自己責任」か。私の嫌いな言葉だ。先生はそんなこと一言も言っていないのに、私は勝手にとんがっている。

「自己責任」で卵巣破裂も卵巣癌も引き受けられるほど私は強くない。かつてシングルマザーだったときに、最も腹が立ち、そして同時に悲しくなる言葉でもあった。安全な船の上にいる人に、君は海を選んだんだろ?と海に突き落とされているような、そんな感覚がするのだ。

病院のある場所は、かつて私が浪人中によく通った場所でもある。18歳、19歳の頃だ。予備校の友達と行った、生まれて初めてのスタバに心躍った日。模試の結果に一喜一憂した日々。私はこれからどうなるんだ?と不安な日々。同級生に後れをとっている自分に焦る日々。社会に出るのが1,2年遅れるって、そんなことたいしたことじゃないよ、とあの頃の自分に伝えてあげたいなと思っている今の私。しかし、10代の私も40代の私もたいして中身は変わっていないような気もする。

やっぱり私は強くはない。強くない私としてこの先も生きていくんだろう。でも、自己責任は持てなくても、私は自分の人生を自分で選ぶことはできるのだ。これまで自分で人生を作ってきたように、これからも選んで作っていける。