わたしは英語ができない、をやめようと思う
北海道旭岳 2022.8
実は、ちょっと英語の勉強を再開しています。いや、再開しようとしている、というったほうが正確かもしれません。
今年になって、「英語ができない私」という根強いセルフイメージがなんだか嫌になってきてしまったのです。
「私は英語ができない」と思い続けて人生を終えるのは嫌、ただそれだけです。
苦手なことは潔く諦めたほうがいい、そう思う自分もいるのですが、
今の私は「英語ができるようになりたい」というよりは「私は英語ができない」と思い続ける人生がイヤだと言ったほうが正確で、往生際悪い私です。
2022年、目標にしていたコーチングの資格に予定より早く合格できたこともあり、今年後半は英語に取り組もう・・・と思ったのです。
今、私の仕事では、多少英語は必要で、やはり医薬品開発の業界にいる限り、英語は避けて通れない。
コーチングの仕事のほうはもちろん日本語オンリーだけど、でもせめて国際コーチング連盟から来るメールくらいはちゃんと読みたい。
でも、今はAI翻訳もあるし、Google翻訳もDeepLもある(超愛用中)。英語ができなくても、正直どうにかなる時代。
思えば、最初に受けたTOEICは24歳くらいの頃、スコアはもう忘れてしまいましたが、履歴書には書かないほうがいいレベルでした(400点台)。
それでも、就職は専門職だったので英語力は特に不要。そんな感じで別に英語ができなくても特に支障を感じることはなく。
しかし、コロナ前に行ったスイスでは、本当に自分の英語力の無さを痛感して、もう少し英語ができたら・・・・と思うできごとが多発。
行きたい場所にどのバスになったらいいのかわからず、ホテルで、日本人ツアーの添乗員さんに相談したりして。
トレッキングコースも、地名が外国語になった瞬間、これほどまでに地図が読めなくなるかというほど。
でも、本当につくづく、人間は「がんばる」「努力」では、続かないということを痛感しています。
いかに、英語に触れる時間を日常生活に落とし込むか。1日1時間勉強、などといういきなりハイレベルな目標を立ててはあっけなく挫折したので、
今は5分だけ英語に触れる時間を1日数回持つということを目標にやっています。
習慣とはきっかけ→実行→報酬という3つのプロセスで形成されていくそうです。
ということは、報酬が必要だということ。私にとっての報酬とは?
いつかまた海外の山を登りに行くことを想像することでもあるし、
いつか心震えるような英語表現に出会うことかもしれないけれど、日々の報酬は何でしょうね。
たぶんそれは「私、よくやっているね」という自分自身へのねぎらいとか
ささやかな自己肯定感の積み重ねなのでしょう。
来月は、人生で2回目、20年ぶりのTOEIC受けてきます。